河内木綿のこと
日本で木綿栽培が始まったのは、15世紀末の戦国時代。
当時の木綿は朝鮮半島から輸入された高級品で、丈夫で保温性に優れ、 僧侶や上級武士の贈答品として使用されていたことが判っています。
河内で木綿栽培の始まったのがいつごろなのかはっきりした資料がありませんが、 少なくとも江戸時代の初めごろにはかなりの規模で栽培されていたようです。
さらに江戸時代17世紀になると、河内の綿栽培や木綿生産が盛んになってきたことは、 寛永15年(1638年)の「毛吹草」には、河内の特産品として「久宝寺木綿」が紹介され、 あの貝原益軒の元禄2年(1689年)に書かれた旅の記録「南遊紀行」によれば、 「河内は綿を多く栽培し、特に東の山のほとりあたりが多く、 その綿から織った山根木綿は京都で評判となっている」と記しています。
さらに、18世紀初頭、宝永元年(1704年)の大和川が付け替えられると、 それまでの河床は畑として生まれ変わり、綿作りが益々盛んになり、木綿織りはさらに発展しました。
18世紀中ごろの久宝寺村(現八尾市)の作付け状況の記録によれば、 村の耕地の7割に綿を植えつけたと記されています。
また八尾や久宝寺などの在郷町や、周辺の村々に木綿を扱う商人たちが増え、 仕入れや販売の競争が激しくなってきました。
宝暦5年(1755年)には、八尾の木綿商人仲間と、高安山麓の木綿商人仲間が、 商売についての厳しい取り決めをしている記録が残されています。
やがて、明治時代に入ると、外国からの繊維の長い綿や細い糸が安い値段で大量に輸入されるようになりました。
それまで手で紡いでいたのが、工場の機械で一度にたくさんの糸が紡げるようになりました。
そして、明治30年(1897年)代には、農業としての河内木綿の生産は終わりを告げました。